はじめまして!
妊娠や出産・子育てや介護・看取りなど幅広く
人生の全てのステージで
皆様の人生と心に寄り添う
「生命の始まりから終わりまで」をテーマに
カウンセリング提供しています
「幸せ人生トータルサポートカウンセラー」椿 祈子(つばききこ)です。
この度は、たくさんあるカウンセラーさんの中から
私のプロフィールまでたどり着いてくださり心から感謝いたします。
私はこれまで人生において様々な経験をさせていただきました。
妊娠、出産、子育て、不登校、夫婦関係、離婚、働くシングルマザー、病気、
嫁姑同居問題、介護、看取りなどなど。
これらの経験は、今となっては私の財産とも言えるようになりましたが
ここまでたどり着くには、一人でもがき苦しんだ長い期間がありました。
もしかしたら、皆さんは今その真っ只中にいるかもしれません。
でも、どんな辛く苦しい出来事だとしても起きる出来事は全て自分にとって
必要な出来事なんだと今ならわかります。
私がどんな人生を生きて、なぜ今カウンセラーとしているのか?
自己紹介兼ねて私の人生ストーリーから皆様の心に届くものがあれば幸いです。
【母の存在が怖くてビクビク過ごした幼少期】
私は青森県の田舎で育ち私たち一家は酪農や農業で生計を立てとても貧しい
暮らしをしていました。
父と母は朝晩は牛舎にて牛の世話 ,その他に春から秋には田んぼや畑
一年中朝から晩まで働きっぱなしでした。
とてもじゃないけど子供のことなんて構っていられない。
生きるのに精一杯。
母からはそんな雰囲気が醸し出されていました。そのためか母はいつも
機嫌が悪く怒ってばかり。
母は、もともと声が大きくいつも大きい声で怒り口調でした。
だから、声かけたら怒られるんじゃなかといつもビクビクしていました。
もちろん、お金もないから親にこれが欲しい!なんて言ったことはありませんでした。
だって、母の存在が怖くて怖くてたまらなかった。
でも、子どもだもの。欲しいものがあったら、我慢できなくて・・・
私は、父や母にも言えず万引きしたこともありました。
ただ、どんなに怖い母でも、私にとってはたった一人の母親。
小学校に上がるまで母のおっぱいを触って安心していたことを
今でも覚えています。
私にとってはそれが唯一の甘える手段でした。
とある日のこと。私は母を追い求めた。今でも鮮明に覚えています。
当時私は5歳。
普段一緒に居られないため、母がうちに居てくれるだけで嬉しかった。
少しでも母のそばに居たい。そんな気持ちがありました。
その日、母は父の入院先の病院に行くことになっていました。
私は母が家にいてくれると思ってとても喜んでいました。
しかし、母は私に病院に行くことを伝えず
気がつくといつの間にか玄関を出て行きました。
玄関から出た母に気付きその姿を見かけた私は母を追いかけたのでした。
「お母さん、どこ行くの?私も連れて行って!」心のなかでそう叫ぶ私。
お母さんに気づいてほしくて、走って母を追いかけていきました。
今まで出したことがないくらいの大声で叫びました。

「おかあさーん」これじゃ、届かないんだ。
「おかあさーーーん」更に大きな声を張り上げます。
「おかあさーーーーーーーん!!」これ以上もう声が出せないほどの
大声を張り上げました。
お母さん、迎えに来てくれるよね。当たり前にそう思っていた。
しかし、母は私の方を振り向くことなく更に走って行ってしまいました。
走り去っていく母の後ろ姿を見て絶望感を味わったような感じで悲しくて、寂しくて。
ただただ一人、大声で泣き叫び心が張り裂けそうになっていました。
お母さんと一緒にいたいだけなのに
どうして一緒に連れて行ってくれないの!
こんなにも大声を出して呼んでいるのに・・・
どんなに叫んでもお母さんは私のところには来てくれないんだ!
お母さんに甘えたいと思う気持ちはもうやめよう。
できる限り迷惑をかけないいい子でいよう。
この出来事で私は「甘えることは母に迷惑をかけることなんだ」
という思い込みを決めて
自分の中で母に何かを望むことを諦めてしまったのでした。
【母を助けたくて母のため生きる道を決めた私】
高校生の時、一緒に暮らしていた祖父が認知症になり、
母は仕事もしながら祖父の介護もしていました。
その頃は介護施設も殆どなかったので自宅で介護するのが
当たり前の時代。
母は祖父の介護をしながら牛の世話、畑仕事に毎日追われいつも大変そうでした。
怒鳴りながら祖父を介護しそんな母の姿を見ていることが
また、とても辛かったのです。
私にとって、母がつらい姿や苦しい人生を生きていることが
可愛そうでたまらなかった。
そんな苦労ばかりしている母の姿を見て母は何のために生きてきたのだろう?
生きている意味なんてないんじゃないか?
「母を幸せにしてあげたい。助けたい!
その一心で親に迷惑をかけないように働きながら
看護師になる道を選びました。
私は母の顔色や機嫌を損なわないようにしてきたため
反抗期すらできない思春期を過ごしてきたのでした。
それは後に自分の心に蓋をして生きてきていたことと
繋がることなんだと理解することになるのでした。
高校卒業後、看護師になるため埼玉へ就職、資格取得後は看護師として働いていました。
【ガタガタと崩れていく幸せからの転落】
同じ職場で出会った彼と5年の交際を経て結婚し、2人の子供に恵まれ
マイホイームも建てとても幸せに暮らしていました。
私達は共働きだったため2人目出産後、旦那の義理の両親と同居する話が浮かび上がり
助けてもらえるかもしれない。
そんな気持ちで夫の両親との同居をすることにしたのでした。
しかし、その幸せは同居をきっかけにガタガタと崩れていきました。
同居とともに義父は脳腫瘍となり3ヶ月でこの世を去りました。
夫と義母は元々とある宗教の信者さん。
義理父が亡くなり夫は義母と宗教活動を共にするようになりました。
それと共に家庭内での宗教上の禁止事項が強制されることとなってきたのでした。
・クリスマス・お祭り・初詣・神社や他宗教のお参りへの参加禁止。
・朝晩はお仏壇でお経を唱える。
・日曜日はお寺さん通い。
・子どもたちは宗教活動の鼓笛隊へ強制参加。
・鳥居をくぐってはいけない。
・学校行事や部活よりも宗教的活動を第一優先にする(子どもたちに選択の自由がなかった)
などなど日常の中でかなりの制限を強いられていました。
特にクリスマスに関しては、私は幼い頃貧しくてプレゼントを貰ったり
ツリーを飾ったりしたことがないので、
子供が生まれたらやりたいことの一つでとっても楽しみにしていました。
ある日、娘が保育園のクリスマス会でもらった長靴をもらってきました。
いざ食べようとしたら、旦那さんと義理母に捨てられていたという出来事があり
腹の中が煮えくり返るほど怒りが湧いてきたこともありました。
このように腹が煮えくりわたる出来事が日常で徐々に増えてきたのでした。
宗教の考え方や在り方に対して全く共感できなかったため何度も活動に参加したくない。
と伝えているもののその話になると喧嘩や争いごとが耐えなくなりました。
子供達の前で取っ組み合いもしたことがあるほど。
『やめて!』と泣きながら子供達に止めに入ってきたこともありました。
その時以降、子供達の前で争いごとは良くないと思った為
喧嘩はできるだけ避けるようにしてきました。
次第に私の中でストレスが溜まっていきました。
義母の不満や愚痴をわかってもらいたくて、暮らしをん改善したくて夫と話すのですが、
話せば話すほど義理母の味方となり何も言えない旦那。
私の中でわかってもらえない感が強くなりどんどん私のストレスが大きくなっていきました。
義母は朝から晩まで仏壇の前で拝む暮らし。
その暮らし方が私には信じられなかった。
こっちは4人の子供を抱えて仕事しながら子育てしているのに!
仕事もしないで朝から晩まで仏壇の前に座って拝んでいる義理母を許せなかった。
やることなすことすべて気にいらない。存在自体を受け入れられなかったのでした。
そんな状態の中、34歳の時、1番下の息子が産まれ長女の小学校入学が重なり
身体的にも精神的にもかなり辛い状況にありました。
更に長女は入学してから1か月で不登校になってしまったのでした。
なんで?どうして?私の育て方が悪いの?自分のことも長女のことも責める日々。
そして、娘の将来に対して不安と怖れに支配されっぱなし。
姑との問題、旦那との問題、宗教の問題、4人の子育て、長女の不登校問題
おまけに育児休暇中にて、私の収入がないからお金の不安もついている。
一気にいろんなことが押し寄せてきて私の心の中は、もういっぱいいっぱい。
四方八方塞がれた感覚になり逃げ場がなくなっていました。
このときに初めて、心の底から感じたことがありました。
「私は今幸せじゃない。本当に幸せになりたい。幸せになりたいのなら自分でつかみにいかなくちゃいけないのかもしれない。でも私が求めているほんとうの幸せって何なのだろう?」お金があれば、時間があれば、友達がいれば幸せなのか?
何があれば幸せなのかがわからないけれど、とにかくただただ幸せになりたい」
そんなふうに感じていたのを今でもはっきりと覚えています。
そして、自分にとっての幸せについて模索する日々が始まりました。
その日から、幸せ探しのために様々なところに足を運ぶようになりました。
外との繋がりや色んな人との出会いで家の中の出来事を忘れることができ
生きることが少しづつ楽しくなってきました。
【娘の不登校と向き合う】
小学校1年生から始まった不登校。
6年生までの間、4年生からは完全不登校。卒業式にも出ませんでした。
当初はこの子のこの人生はどうなってしまうのだろう?
不安から心が押しつぶされそうになる時もしばしばありました。
娘の不登校を受け入れられず常に葛藤の連続。
本を読み漁り、不登校の色んな方の話を聞いてみたり、フリースクールを探したり
娘が安心していられる居場所を散々探し求めて気づいたのです。
外に安心できる居場所を見つけるのではなくて、お家が安心できる居場所になればいいんだ。
ただただ、娘の存在を認めてあげられる母親になろう。そう決めたのでした。
不登校になったからといって全ての人の人生がダメになっているわけもなく
立派な大人になっている人の情報をたくさん得ることで
私の中の大きな不安は小さくなっていきました。
娘の不登校からの学びは、
「子供は学校に行くのがあたり前」そんな常識を持った私の価値観を見事に
壊してくれて、親の言う言う通りにならなくても
「存在しているだけで価値がある」
そんなことを気づかせてくれた大切な出来事と今ではなっています。
【別れることが怖くて途方に暮れる日々】
うちの中が居心地が悪い私はママ友と外での活動が増えてきました。
不登校の娘もいるし学校行かないからこそ、いろんな体験をさせてあげたかった。
そんな私や子どもたちに対して夫の宗教への執拗は増々エスカレートしていくのでした。
次第に夫が仕事から返ってくることを考えると私は動悸がしたり
吐き気がしたり身体症状が現れるようになりました。
おまけに強迫観念のように感じてきたのでした。
このままだと私がおかしくなる。やばい!でも、行くところがない。
そんな状態にありながら、今度は卵巣に腫瘍ができ緊急手術をすることになったのです。
別れたいと思っている矢先に病気になり更に
4人の子供を育てる自信もお金も覚悟も無くなってしまいました。
誰に相談したらいいのか?
どうしたらいいのか?ずっともがいていました。
怖くて怖くて前に進めない私がいました。
しかし、今の状況から抜け出す為に少しずつ相談することにしました。
姉や親に初めて相談したり、家庭裁判所や弁護士に相談したり
夫の兄弟にも相談しました。
叔父に間に入ってもらい話し合いを設けてもらったりもしました。
しかし、話にならず叔父にも呆れられてしまい
はたまた、私はどうしたらいいのか?彷徨うのでした。
口で伝わらないなら行動で示そう!そう思い3度も家出をしたのです。
なのに、解決策も見つけられないまま結局、私は子供を一人で育てる自信がないから
又夫の元に戻るのでした。
子供達を守れない自分自信に対して情けなさと苛立ちを感じ
心の中は悲しみでいっぱいでした。
そして、家出をしても変わろうとしない夫をみて、絶望感を感じていました。
【人生が変わるどん底の転機が訪れる】
宗教活動に熱心だった義理母が癌でなくなったのでした。
これで、夫は変わるかもしれない。そんな淡い期待をしていたのです。
どこまでもどこまでも夫が変わることを信じたかったのだと思います。
私の心の中は義母が亡くなった悲しい気持ちよりもやっと自由が訪れるかもしれない。
そんな気持ちから心がホッとしたのを感じていました。
しかし待っていたのは、さらなる宗教の執拗だったのでした。
容赦なく宗教活動に連れて行こうとする夫。
この人は本当に変わらないのだと理解したときにここから抜け出さなくてはいけない。
私は強く決心しました。
絶対にもう宗教活動には参加しない。
その気持ちを伝える為に、話し合いの場を設けたのですが結局、
争い事となり警察のお世話になりました。
その日から私と子供達は住む場所を失ったのでした。
この先どうしようかと悩んでいると母から連絡がありました。
「これから、どうするの?こっちにくれば何とかなる。帰ってきなさい!」
親にずっと頼れないと思っていたから、甘えちゃダメだと思っていたから。
幼い頃、そんなふうに感じて私の中にいた怖い母が、いつしか優しくもあり
強くたくましい母の存在に心が震えて涙が止まらなかった。
そして、最低限の荷物と4人の子供達と青森へ引っ越し新しい人生に向けて
スタートしたのでした。
【不安に襲われる日々の始まりがカウンセラーの道へ】
子供達と青森へ向かいこれから新しい暮らしへの期待と一人でやっていけるだろうか?
の不安な気持ちが入り混じり複雑な気持ちを抱えていました。
そして、母が準備してくれた家は、今にも倒れそうなオンボロの家。
ここに住むの?! え〜〜〜〜〜!
しかし、お金のない私には選択肢はなかった。
雨風しのげること。布団で寝れること。誰にも強制されない安心していられる場所があること。
それだけで、私には天国に感じたのでした。
しかし、新しい暮らしと共に不安に襲われる日々が始まったのです。
・お金の不安(どれくらい生活費・教育費がかかるのだろうか?)
・いつになったら離婚してくれるのだろうか?(離婚まで2年かかりました)
・私が病気で入院したら死んだら誰がこの子達を見てくれるのだろうか?
・私が働けなくなったらどうしよう?
・不登校していた娘は学校へいけるだろうか?
・学校へ行きたくないといったらどうしよう?
考えればキリがない悩みや不安ばかり。
地元とはいっても離れてから20年も経っているから心から本音を話せる人が全くいない。
近くに親はいるがやはり甘えることが出来ない私の習性があり
親を頼るということはほとんどありませんでした。
いつも、ピンと張り詰めた糸が切れそうなくらい仕事も家事も学校のことも
色んなことを頑張って。
母親役も父親役も完璧にこなさなきゃいけない。
自分を犠牲にしても子供のために頑張る私がいました。
疲れ果てて仕事も子育ても投げ出したくなる時が時々ありました。
こんな時、心の中の本音を話せる人がいたらどれだけ心が楽になっただろうか?
自分の気持ちを理解してくれる人がいたら、どんなに安心できただろうか?
辛いよ〜。
苦しいよ〜。
助けて〜。
この言葉を自分の気持ちを受け止めてくれる存在が必要だと強く感じました。
そこからカウンセラーになる道を目指し、現在は特に妊娠・出産・子育て・夫婦問題・
人間関係・介護・看取り
など生命の始まりから終わりまで人生における様々な悩みに寄り添い
「幸せ人生トータルサポートカウンセラー」として活動しています。